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地天泰 ちてんたい

●麟角肉有るの象

りんかくにくある

 麟とは麒麟のことである。これは前述の乾為天のところで説明したように、支那古代人の想像上の霊獣であって現在実際に居るあのキリンのことではないのである。鳳凰などと同じく聖人が出でて至道(しどう:この上ない高みに達した人道)の行われる泰平(たいへい:世の中が平和に治まり穏やかなこと)の代にのみ現れる霊獣とされているのが此の麒麟である。

 此の卦の下卦の乾に麟の象があり、又角の象がある。そして上卦の坤に肉の象がある。此の卦の下卦は乾天であり上卦は坤地である。即ち天気は下降し坤の地気は上昇して茲(ここ)に陰陽の二気が相交わって萬物通泰する理を表した卦故に、彖伝に『天地交わって萬物通ず』といい、又此の陰陽の二気が交わって天下安泰夫婦相和して家齋(ととの)う。彖伝に『上下交わって而して其の志同じきなり』といっているのがそれである。即ち天下泰平家内安全ということが泰の卦の本義ではあるが、人事占断の場合に若し此の卦を得たとしてその際に此の本義を其のまま用いて、その人の身上が至極安泰で別に何等の不安なしと断じてよいのであろうか。又それで適中するのであろうか?之は他の卦の場合にも共通する占断上の問題でなければならない。之には眞勢中州下の逸材谷川龍山の説明が凡(すべ)てを明らかにして居るのである。即ち「聖人彖爻を作って以て常道を教え、卜筮(ぼくぜい)を設けて以て権道を教ゆ」と谷川龍山はいって居る。此の常道と権道を知らなければ占断はできない訳であるが、易占に依って人事の吉凶悔吝を占断することは即ち易の権道(けんどう:目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。)であるから、此の場合、唯(ただ)徒(いたず)らに常道(じょうどう:つねに人間が守るべき道)に依って易の本義を説く態度で人事百般を判断しようとしても到底適中は得られないことを知らなければならない。だから卜筮は易の権道たる立場よりすれば、この地天泰の卦を得た人はその身安泰ではない人であると断ずべきことになる。それは我々の実際生活上に於いて、何不自由なくその身安泰であれば、自ずから増長慢になって荒み怠り奢侈(しゃし:度をこえたおごり)安逸(あんいつ:気楽に過ごすこと)に流れて遂には運気衰退の結果、求占する人にしばしば此の泰卦を得る事実からである。即ち、其の人は泰の極まって将(まさ)に否塞(ひそく:閉じ塞がること)に至らむとする人と断ずる所以(ゆえん)である。元来、動物に角や牙や爪などのあるのはその身を守る武器であり、又進むで敵を仆(たお)す武器であるから常に心懸けて鋭利にして置かないといざ事あるときに役に立たない。然るに、その武器たる角に肉を生じては恰もナマクラ刀のように角の役目は果たせない訳である。そこで白蛾は「麟角肉有」の語をかけて、その角に生じた肉を取り除いて常に鋭利にして置くと同じく奢侈安逸の行を改め眞面目に正しく進む決心をすれば再び泰の境涯(きょうがい:境遇)に立ち戻ることができると断ずべきである。

 

※麒麟:中国神話に現れる伝説上の動物(瑞獣)の一種。泰平の世に現れる。獣類の長とされ、鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる。形は鹿に似て大きく背丈は5mあり、顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。古くは一本角、もしくは角の無い姿だが、後世では二本角や三本角で描かれる例もある。

 

 

※吉凶悔吝(きっきょうかいりん):人の心と行動の巡り合わせを表す。つまり、人は過ちを後悔して吉になり、吉になると油断して奢りや慢心が起こって吝嗇(りんしょく:けち)になり、過ちを改めることをぐずぐずと厭がり、凶になる。凶になって、そこでまた後悔するのである。

●雁衡陽に至るの意

かりこうようにいたる

 衡陽とは地名である支那湖南省の衡山縣に衡山という山があり支那南方の大山である。その麓に衡陽という所があって、其の處に回雁峯なる山があって、雁はそれから南方へは行かないことになっている。その訳は雁は所謂渡り鳥で、秋酣(たけなわ)の頃となれば北方西比利亜(シベリア)地方から支那本土に渡って来て段々南方に行き、晩春の頃になると再び北方に向かって帰って行くのが習性である。それで遠い北方から来る雁も南方のこの衡陽の辺りまで来ると気候は既に春となるので、それより南方には行かずに北地へ引き返して行く故に、此の衡陽に雁の回る峯なる山があるのである。即ち北方から来た雁も衡陽の回雁峯近くまで来ると既に行き止まりとなって再び元の地へ帰ると同じく此の卦を得た人の運気も最早行き止まり改め重々戒愼(かいしん:言動をいましめつつしむこと)せねばならぬことを、雁衡陽に至るという語句で示したのである。