天の卦 · 25日 5月 2022
 此の乾卦の初爻から上爻に至る六爻の動きを説明した爻辞には、初爻を潜龍とし上爻を亢龍(天高く昇りつめた龍)として、龍が時に應じて行動変化する道筋を示してあるに據(よ)って、龍変化を示すの象と謂ったのである。一体此の龍なるものは、支那の古代人が想像上での神霊的動物としたものであって、麒麟と鳳凰と亀と龍と―この四つを四霊と云い、龍はその内の一つで鱗ある諸虫の長で能(よ)く雲を起こし雨を呼ぶ霊物としてあって、彖伝に「時に六龍乗じて以て天を御す。乾道変化して各々性命を正しくす」と説いてある。  即ち此の乾卦に於いて、人の出処進退を龍になぞらえて教えたのであって、此の卦の六爻は皆陽爻故に、龍に象どってそれぞれ爻辞をかけてあるのである。雲を起こし雨を呼ぶほどの霊物龍でも時運悪ければ深淵に潜んで暫く時機を待つのが安全であると、此の卦の初爻で「潜龍なり用いる勿(なか)れ」と戒め、それから進んで二爻に至ると「見龍田に在り 大人を見るに利(よろ)し」との辞で時運めぐり来た故そろそろ進み出して向上発展の方針を樹(た)てよと教えているのであるが、此の様に六十四卦皆それぞれ、その初爻から二爻、三爻、四爻、五爻、上爻と各その位置立場に順應して進退ともよろしく善処せねばならぬことを示してある。そのことを易卦では「位」と云うのである。だから易は「占」を離れた場合は即ち人の道徳的所世(しょせい:世間で暮らしを立てること)の道を教えているのである。
地の卦 · 25日 5月 2022
彖伝に曰く『至れる哉坤元 萬物資って生ず 乃(すなわ)ち順って天に承(う)く 坤は厚くして物を載す 徳无疆(むきょう)に合う 含弘光大(がんこうこうだい)にして、品物咸(ことごと)く亨る』とあって、これは坤卦の徳を賛美した言葉である。含はフクムと訓じて包含の義、即ち万物を悉(ことごと)く包み容れるを云い、弘はヒロシと訓じて寛容の義で有せざるところなきを云い、斐はアヤ又はウツクシと訓ずる。即ち此の語の意は坤地の徳は、廣く厚くて万物をその上に載せているのみならず万物の生意をその地中に包み含むで万物を化生(かせい:新しいものが生まれ出ること)して地上に出し各々その光輝をあらわさしむるその有難い徳を讃えたのである。
水の卦 · 25日 5月 2022
 此の卦は、震下坎上の卦であって上卦の坎は水の象、下卦の震は龍の象で尚震に動き進む象がある。依って龍水中に動くの象というのである。彖伝に「剛柔始めて交わり而(しか)して難生ず。険中に動く大いに亨(とお)る貞(ただ)し」とあるが、龍は昇天してこそ雲を起こし雨を呼ぶことも出来るが池中(ちちゅう)に在ってはその活動はなし得ない。今此の卦は、その龍が池中を出でて天上しようとする時であるが、その池中を出るということが大変な難みである。人は此の場合、慎重に行動せよというのである。
山の卦 · 25日 5月 2022
 坎下艮上の卦である。下卦坎に渓水(けいすい:谷川の水)の象、上卦艮に巖山(がんざん:険しい岩の山)の象あり。巖山と渓水の自然風景として、渓の霧は上って山を覆い山の雲は下って渓(たに)を隠す。此の情景は即ち蒙昧の意になる。故に蒙と名付けたのである。又巖はイワオを訓じ石山をいう。険はケワシと訓じ、又元は巖険共に同意義に通用したが艮の卦にこの巖険の象がある。又雲煙というのは雲霧が烟(けむり)の如く立ち上る形容詞で即ち坎卦の象である。卦名の蒙はクラシと訓ずるが暗の字のクラシとは異なって、雲烟濛々(もうもう:煙が立ちこめるさま)としてとして一寸先も定かならねど、然し暗夜のクラサとは異なって、これは朧気(おぼろげ)ながら四囲(しい:まわり)の形状は観取し得られるクラサである。又此の卦の蒙は童蒙(どうもう:幼くて道理がわからないこと)の義であって、前の屯卦を赤子の出生とすれば、此の蒙卦は稍(やや:少し)成長した童蒙とする。少年には物を観取する能力はあっても事理を識別する能力はない。その事理に暗く分明でないのは即ち巖険雲烟の象と通ずる。その雲烟もやがて一度散消したならば、そこには麗しい自然美が展開されるであろうし―此の点が此の卦の判断上の眞穴である。眞勢中州も此の卦を以て、始めは朦朧として後には著明なる意といって巖険を覆える雲烟のやがて霧消する時期あることを説いているし、又蒙の難(かた)みは難(かた)むべからざるに艱(なや)む。これ蒙昧の甚だしき也と謂っている。
水の卦 · 25日 5月 2022
 下卦に乾天上卦に坎水がある。これは雨雲が空を重なり覆っているが雨となって降らない象である。此の蜜雲不雨という語は風天小畜の卦の彖辞であって小畜は、乾下巽上卦である。巽は坎の半分が欠けた象で即ち未だ坎とならないので雨降らずであるが、それが上爻に至ると既に雨降るのである(上爻辞-既に雨降り、既に處(お)る)が此の需卦は元来上卦に坎を配する。坎の雨水は降る可能性はあれど、下卦の乾の陽が之を保っているので、雨となって降ることができない―これ即ち蜜雲雨降らずである。雨は地上の万物に潤いを与えその成育を助けるのであるから、旱天(かんてん:ひでり)のときには人間を始め禽獣草木虫魚に至るまでひたすらに雨の降るのを需(ま)つ―夏の旱天の時の彼の雨を待つことを考えたなら、これ需つことの大いなるものであることがよく解るであろう。又彖伝には『需は須なり、険前に在るなり、剛健にして陥らず、其義困窮せず』とある。これは外卦の坎を大川とし、今、内卦、乾の剛健を以て妄(みだ)りに進み渉ろうとすれば、遂に陥り溺れる惧(おそ)れがあるから、暫く安全に渉れるまで時期を待つべきを示してある。郊に需(ま)つ、沙に需つ、泥に需つの爻辞がそれである。卦の配列即ち序卦では、乾坤の二卦で天地の開闢(かいびゃく:この世のはじまり)を示し、屯卦で國土創成を示し、蒙卦で人類の発生を示し、此の需卦で人類の飲食の道を示している。
天の卦 · 23日 5月 2022
 上卦は乾天で下卦は坎水である。上卦乾の天気は上昇し下卦の坎の水気は下降して上下和せず。これ天水違い行くの象である。彖伝にに曰く、天水と違い行くは訟なりと。訟はウッタヘ、アラソウ、又はサカウと訓ずる。上下乾は強剛で我を虐げ、我は坎険に陥って苦しむ斯(これ)の様に彼我(ひが:相手と自分)の心志(しんし:こころざし)相背き戻るのは、これ天水違い行くの象である。
地の卦 · 23日 5月 2022
 上卦の坤は地で下卦の坎を水とし陥険とする。これ地勢淵に臨むである。地勢とは地形と同意で土地の状態をいうことである。淵はフチと訓じ水の深く外へ流れないところをいう。ここにかけた語は上卦「坤」下卦「坎」の形象から謂ったのであるが、詩経にも「深淵に臨むが如く薄氷を履むが如し」の語があって、其の地形が深い淵に臨むでいる處は一歩を過てば転落の危険がある。それと同じく此の師卦は師はイクサと訓じ戦争の卦であって、古人も兵は危道(きどう)なりとか又兵は死地なりとかいう様に、戦争は所謂一國の運命を賭けた大事である故に一度失敗した時は國を挙げて焦土となすほどの覚悟を以てなさねばならぬのであって、それ故に雑卦伝には師は憂なりとある。即ち師の卦は心労多く憂患(ゆうかん:心配して心をいためること)多き卦である。
水の卦 · 23日 5月 2022
 坤下坎上の卦である。坎水坤地の上を流れて隔てなきところから北と名付けたのである。即ち水地上を行くの象である。又彖伝に「比は輔くるなり。下順従するなり。」とあって、此の卦全体を観ると、五爻の一陽が君位に在って他の五陰に親しみ應じ、五陰も亦五爻の一陽に順従して之を輔(たす)ける故に比と名付けたのであるが、その象は丁度衆星が北極星に拱うという語句をかけたのである。それは上卦の坎は方位は北であり、その主爻である陽爻は五爻の君位に居る故に之を北極星に見立てたのである。支那古代の天文学によると、天体の北方に紫微垣(しびえん)という星座があって、その星座の中央を紫微宮と名付け其の處に天皇太帝(てんこうたいてい)という星が居て、此の星を中心として衆星が旋(めぐ)ると説明しているが、それは即ち北極星のことである。論語の為政編に曰う「北辰の其の所に居て衆星の之に拱ふが如し」とあるのが即ちこのことである。拱の字はムカウと訓じ手指をコマヌクこと(ある方向に向かう)で支那古代の貴人に対する時の礼儀の仕方である。
風の卦 · 22日 5月 2022
 柔よく剛を制すという語があるが、此の卦がその象である。即ち下卦の乾が猛進しようとするのを、上卦の巽の柔順が之を制止しようとする象である。然しそれも何分柔の弱きを以て剛の強きを制すること故、長くは之を畜(と)められないところから小畜と名付けたのである。即ち小さく畜めるである。下卦の乾は暁とし上卦の巽を残月とする(坎を満月、兌を新月、巽を残月-下弦の月とする)下弦の月は、東方に暁の光さしむる頃には其光を失う。これその光長く天に止まらない故に語句をかけたのである。
天の卦 · 22日 5月 2022
 履は禮(れい)である。序卦伝に『物畜えて然る後に禮あり。故に之を受くるに履を以てす』とあるが、即ち衣食足って禮節を知るの謂である。此の卦の上卦は乾天であり下卦は兌澤である。乾は天にして尊く、兌は澤にして卑し、尊いものは上に在り卑しきは下に在る。これ尊卑分定の象である。序卦伝に『履にして而して泰 然る後に安し故に之に受くるに泰を以てす』とあって、禮なるものの重要性を説いて居る。上に居るもの下を侮ることなきは尊き者の禮であり、下に居るもの上を敬うは卑しき者の禮である。上下各々禮を守って其の定まった分際を越えることなければ、國は安泰に家も安泰なりというのである。

さらに表示する